カテゴリー : 映画・演劇・パフォーマンス

映画「アトモスフィア」

映画「アトモスフィア」

インディーズながら完成度の高い映画だった。もっとぶっ壊れたところがあってもいいのに、と思うくらい達者だった。最近の若い監督はソツがないと思ったら、監督の佐々木友輔はすでにいくつもの賞をとっている中堅だった。

流産してから夢を見て眠れない妻とその夫の会話。妻のバイトであるテープ起こしの言葉。それらがやがて明らかにしていく夫婦の関係、この街の状態、この国のありさま。

それらの言葉を浮かべる映像は、ありふれた郊外の風景を手持ちカメラで捉え、それがときどきデフォーカスしたりしてる。また、PCモニターの文字変換もアクセントになっている。

いずれにしても低コストがまったくマイナスポイントになっていない。むしろ、逆手に取ってセンスの良さを際立たせている。最近の若い映像作家はビデオというものを生理感覚にまで引き寄せている。

これはビデオならいくら撮っても構わないということの帰結なのか。フィルムの場合、現像、編集、上映を考えてカメラを回すことになり、ためらいとか慎重にとかが先に立つものだったが。

ただ、本作は子どものいない夫婦のあり方に現実感がなく、もう少し生々しい関係でないと納得はできない。また、フクシマについてを取り上げているのだが、このままではそれが単なるアイテムとしてしか受け取れない。今後はテーマの深化に期待したい。

映画「ニーチェの馬」

映画「ニーチェの馬」

最初にニーチェと馬のエピソードが語られるので、あの馬はそれだとの解釈は勝手にすればいい。出てくるのはおそらく中欧、の貧しい農家に暮らす片腕の不自由な老人と中年にさしかかったその娘。この物語はその小さな世界の日常を通じて描かれる世界の終わり。ケレン味たっぷりで、出来のわるい映画だった。

思い出すのはこのふたりの食事のシーンばかり。夕食はゆでたじゃがいものみ。それを手づかみで皮をむいてそのまま食べる。しかも、ほとんど残す。あのじゃがいもは日本のスーパーで見るものの2倍はある。おそらくほとんどは食べられない部分で、食べられる部分だけを選んで食べているのだろうか。

また、朝食は立ったままウォッカのみ。父は2杯、娘は1杯。あれが中欧の農家の日常生活だと言うのだろうか。ハンガリーの監督らしいが、現地の人にどう思うのか聞いてみたい。ロシア文学を読んでいてもここまでひどい食事は知らないが。無駄な寒々しさだけが漂う食事で、これだけは「最も寒々とした食事シーン」として映画史に残るかもしれない。

馬とか井戸のエピソードで世界の終りを象徴しているのだろう。こうした小さな世界を通じて終末を描く映画はいくつも見た。「風が吹くとき」「渚にて」など。

しかし、そのうちでも忘れられなくなるものは祈りのあるものだ。例えばタルコフスキーのノスタルジア。ロウソクの火を守りながら歩を進める長回し。この映画(ニーチェ)にはそうした意思の崇高さをたたえるところがない。共感のない終末の危機感だけを煽っているだけではただのプロパガンダである。あるいは世をはかなんだ老人の泣き言か。

実験映画とか芸術映画の衣をまとっていればそれなりに持ち上げられるのか。作る側も見る側もまずは思想を深めてから表現に向かって欲しいと思う。

恵比寿映像祭2012「即興オムニバス映画《“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW” Omnibus 2011-12》」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭2012「即興オムニバス映画《“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW” Omnibus 2011-12》」@東京都写真美術館

映像作家の前田真二郎による映像プロジェクト。今年の恵比寿映像祭の上映では一番面白かった。

前田はある指示書を提示して全国の映像作家に参加を呼びかけた。その指示書とは①明日行くところを決めてそれについて語る、②そこに行って映像を記録する、③昨日行ったところについて語る、④映像と録音を編集して5分間の作品にする、というもの。

今回は昨年4月に作成された第1期作品と8月31日と9月11日に作成された作品の合計22本が上映された。いずれもプロジェクトのウェブサイトですべて公開されている。

311以降の作品とは言っても、ほとんどが普通の人々の日常を描くものだった。それがこの時代を記録する試行として貴重なものとなっており、その普通さがかえって胸をうつものだった。

指示書を受け取って「明日、どこに行こう?」と相談する相手は家族だったり、恋人だったり、携帯電話で親しい友人に連絡して断られたり、自分ひとりに問いかけたりする。行くところも特別なところではなく、実家とか墓参りとか近所の神社とかの極めてパーソナルな旅が多い。

それでもその日常の映像には311の影がどこかにまとわりついている。今日の映像作家は、マスメディアやネットメディアのようにその影を声高に叫ぶことはしない。それが彼らにとってビデオというツールがすでに生活や人生の一部と化していることの証のように感じた。

ビデオというツールは映画のようなプロジェクトや産業ではないし、ネットのように華々しいテクノロジーやビジネスでもない。しかし、自分やその周辺、そしてその肌触りや内面を表現する手段として最もしっくりする道具になったのではないか。この上映で多くの作品を見て、また最後の舞台挨拶にあらわれた多くの作家たちを見てそう思った。

作品点数が多かったし、特徴のある作品ばかりでもなかったのだが、舞台挨拶で「私の作品は…」と言う、ひとつひとつの作品を私は明確に覚えていた。その出来事が普通であるだけに、かえって心にスムーズに浸透していったようだ。

しかし、中でも最も記憶に残ったのが池田泰教の「郡山に住む父と過ごした一日 Hunging in Mid-air」。その父は住宅設備か工業設備の販売をしているのだろうか、映像はその仕事場の室内のみ。池田はそこで寡黙に作業する父を撮った。「何か」の測定器だろうか、装置の発するノイズが静かな日常に不穏なものが存在することを示唆する。今日の若い作家の、静かだが持続する意思に感銘した。

恵比寿映像祭2012「建築と映像:物質試行をめぐって」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭2012「建築と映像:物質試行をめぐって」@東京都写真美術館

建築家の鈴木了二構成の建築映像5本立て+トークライブ。鈴木の作品は近美の「建築はどこにあるの?」展で見た。この作品を含む「物質試行」シリーズの建築を撮影した映像は、ほぼブラックアウト状態だが一瞬だけ建築物のエッジが光る、というような映像で眠気の限界に迫るものだった。

恵比寿映像祭の上映はこの種の忍耐力の限界を試されるものが多くて、私はもはや楽しみにしている。昨年のジェームス・ベニングもすごかった。

冨永昌敬の「亀虫の妹」という作品はマンションに引っ越してきた若い女性の日常をたんたんと描くもので、モノローグがある分まだ楽しめたが、これが建築映像?と疑問になった。後のトークではマンションという狭い空間を撮影する手法が素晴らしいのだそうだ。しかし、それって今日のロケ撮影では普通なのでは?

「S/N」から“発明”する社会と繋がる方法論@早稲田大学小野記念講堂

「S/N」から“発明”する社会と繋がる方法論@早稲田大学小野記念講堂

早稲田大学演劇博物館で行われている、90年代の京都とダムタイプの「S/N」に関するアーカイブ展の関連イベント。第1部が「S/N」のビデオ上映、第2部が関係者によるシンポジウムだった。200席の会場がいっぱいで、このテーマでこんなに人が集まるとは思わなかった。

「S/N」を見るのは3回目。なので今回は特にいつもは読み飛ばしがちのテキストをメモしながら見た。

「conspiracy of silence/conspiracy of science/conspiracy of scientia」という問題提起から始まり、「I dream…, my … will disappear.」のモノローグも力強い。

しかし、最も印象的だったのは「日本人」の「ろう」の「男性」の「ホモセクシュアル」であるアレックスと、セックスワーカーのブブが肉体でやりとりするシークエンスで、アレックスが聞き取りにくい言葉で発するテキストだった。

あなたが何を言っているのかわからない
でも あなたが何を言いたいのかはわかる
私はあなたの愛に依存しない あなたとの愛を発明するのだ
これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン

ディスコミュニケーションを乗り越えるための徒労のような長い行いを経て発信されるこの宣言は、絶望と不屈を併せ持っているようだった。

AIDS、障害者、セックスワーカー、ホモセクシュアルなど、「S/N」のテーマは社会的マイノリティである。90年代の演劇でマイノリティやディスコミュニケーションについて取り上げることは珍しいことではない。むしろありふれている。しかし、「S/N」が衝撃的だったのは役者がそれらを演ずるのではなく、本物のAIDS保持者、ろう者、セックスワーカー、ホモセクシュアルが自ら本人としてステージに登場していることである。

また、シンポジウムでキュレーターの四方幸子がダムタイプの特徴としてワークス・イン・プログレスを挙げていた。これはアート業界では馴染みのあるフレーズであり、アートファンにはそれを許容する土壌もある。しかし、興行という、チケットを販売して客席を埋めるというシステムの確立した演劇業界では、このワークス・イン・プログレスは受け入れがたいものではないか。

その点からもダムタイプが演劇やステージというよりもアートとしてアートファンに高く支持されるのは分かる。

ところで、私は以前からアレックスに興味があったのだが、シンポジウムの質問タイムに会場から手話による彼についての質問があった。

「S/N」に出演したブブ・ド・ラ・マドレーヌによると、ダムタイプのリーダー的存在の古橋悌二は人間の相対化を印象づけるために出演者にろう者が必要だった。アレックスは画家志望の青年だったが古橋の説得を受けて絵画以外の自己表現方法として出演することにした、とのこと。

質問をしたろう者の方によると、アレックスとは一度会ったことがあり、彼が手話を出来なかったことに驚いたとのことだった。私はここにも「S/N」のテーマであるボーダーの諸相があるのだなあと思った。

シンポジウムの参加者でダムタイプの直接の当事者といえばブブだけで、他はその後に関わった者が多かった。そのためか、議論はかみ合わない印象だった。

しかし、ICCの学芸員である畠中実が、「S/N」は権利関係の理由で今後もビデオ化される予定はない。しかし、むしろそのことがこうしてホールで上映し「S/N」について語り合うことを繰り返す機会となればそれも良い、と言っていたのには同意する。

ビデオはあくまでもリアルなステージの影や記憶に過ぎない。しかし、「S/N」はこうして若い層に繰り返し見てもらいたいステージの影である。

映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」

映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」

グラフィティアーティストのバンクシーによる映画。バンクシーの作品が中心になるのかと思いきや、ミスター・ブレインウォッシュというアーティストについてのドキュメンタリーだった。

このミスター・ブレインウォッシュが、あれよあれよという間にLAのアートシーンで注目されていく様子も面白いし、それにバンクシーさえもが翻弄されているのが笑える。

彼はアートに何の関わりもないビデオマニアの古着屋オーナーである。ひょなきっかけでグラフィティアートの記録をすることになり、その業界で重宝されるようになった。

やがて、自分でも作品を制作することになり、資産をつぎ込んでアートスタジオを開き、作品を量産していく。展示会が話題になり、作品の価値もうなぎのぼりに。

こうした事例を目の当たりにすると、現代アートのマーケットは病んでいると思わざるをえない。美術史の文脈や評論の不在によって、需要のみが作品の価値を決定する要因となっている。そして、このプロセスには制作する喜びとコレクションによってそれに関わる歓びが不在なことが見ていて不愉快にさせる。

ブレインウォッシュ自身は素朴で痛快な奴なのだが、それをとりまくマーケットやメディア、セレブの関わり方にアート作品に対する尊厳がない。バンクシーらグラフィティアーティストには、世間をびっくりさせてやろうという面白がりの気分があふれているのが救いだったが。

それはそれとしてこの映画では、撤去されることが前提の「作品」を、犯罪すれすれのやり方で「展示」するグラフィティアーティストの実態が垣間見えて興味深かった。グラフィティアートに関するもっと包括的なドキュメンタリー映画や書籍がほしくなった。

映画「無常素描」

映画「無常素描」

「9月11日」も早かったが、こちらも震災1ヶ月目に現地入りし撮影、3ヶ月後に上映と素早かった。それでもこれはテレビのスペシャル番組ではなく、れっきとしたドキュメンタリー映画である。

ナレーションも音楽もなし。ひたすらあのガレキの平野と被災者の声で、あの時期のあの場所の空気を映像に定着させている。

被災者の声を聞いていて思うのは、あたりまえの事だが、生存者は語り、犠牲者は語らないということ。そしてこの映画のどの人にも不在の人の影がまとわりついているようだった。この映画はそうした不在の存在をしっかりと映していた。

映画の中で玄侑宗久がタイの竹の橋を例に「壊れないものを作ろうとすることは不毛ではないのか」(記憶の再現なので不正確)と語っていたのが印象的だった。

そして、「大きな津波が来たので、今度はその津波にも負けないくらいの立派な防波堤を作ればいい」という考えの不毛さに気づくのに、これだけの犠牲が必要なのかと寒くなった。もちろんまだそのことに気づかず、昨日と同じ明日が続くと思っている人も多いが。

思えば震災復興会議の提言で、災害を封じ込めることではなく「減災」が指摘されたのは、好意的に解釈すればこうした被災地の気分に触発されたのかとも思う。

ラストシーンが渋滞の高速道路だった。これまでの日常が続いている首都圏の気分を象徴していた。この映画を見終わったら、そうした日常を直視することが苦しくなっていた。

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