カテゴリー : 大規模美術展・アートフェア

アートフェア東京2012@東京国際フォーラム

アートフェア東京2012@東京国際フォーラム

アンドーギャラリーのショナ・トレスコットが面白かった。古典的な風景画だが手法は印象派といずれにしてもクラシックだが、伝わってくるのは人とのつながりか。
あとはSNOW CONTEMPORARYでみた山川冬樹の放射線ギター。今回は皇居周辺の土らしい。ここで竹内公太の個展が開催中と聞いて必ず行こうと決めた。
それから、GALLERY SHOでみたMASAKOという作家がきになる。若い人らしいが美大に行かずにひとりで制作を続けているとのこと。

昨年が震災の影響で7月末開催だったが、やっぱりこのイベントは新年度のあわただしい頃が似合う。昨年はロビーフロアに上げられていたコンテンポラリーギャラリーも同じフロアになって会場は見た目に大きくなった。

しかし、どのギャラリーも新しい作家を出すことが少なくて、普段からこまめにギャラリー巡りをしていると見るものがなくなっていく。地方とか海外の店もアートフェア東京ならではという作家を出していないのではないか。以前はここで初めて見た作家にいつか美術館の常設で再会ということもよくあったのだが。

G-tokyo@森アーツセンターギャラリー

G-tokyo@森アーツセンターギャラリー

こちらはとても手が届きそうもないハイソな雰囲気のアートフェア。その雰囲気を楽しむために六本木ヒルズまで毎年出かけている。秋葉原のTOKYO FORNTLINEからハシゴすると日本のアート業界の格差が楽しめる。

先日、DOMANI展で見た児島サコが小品を集めたウォールにあった。DOMANIにあった大きめの作品はテーマが先にたっているようで印象がよくなかったが、今回の「朝までに家に帰りなさい」と「KING AND QUEEN」は絵かきとして手を動かすことが先行した感じがあってよかった。

NANZUKAエリアに田名網敬一の作品群があった。トリニトロンのモニターで見る70年代のアニメーション映像は、懐かしくもあったがクオリティの高さにあらためて感心。

今年のG-tokyoではワコウ・ワークス・オブ・アートで見たミリアム・カーンが最も収穫だった。70年代から活躍しているイスラエルの作家と聞いた。非現実的な風景にエッジの定まらない形態。夢の記憶をなんとか再構成しようと苦闘しているかのような絵画作品。どういう精神風土なのだろうかと気になる。忘れられない映像だった。近日中に個展もあるとのことなので、ぜひ行こうと思う。

あと、アラタニウラノで久しぶりに小西紀行を見ることができた。定着の悪いマチエールでポートレートや群像を描くことは変わらない。小西の描く子供や家族は、可愛いが目が赤くて点だけだったりとブキミ。だが、私たちの普段の生活で感じる、他人と理解し合っている感覚とディスコミュニケーションを感じることの境界、それが大きな振幅で揺れ動いていることを伝えているような気がする。

TOKYO FRONTLINE 2012@3331 Arts Chiyoda

TOKYO FRONTLINE 2012@3331 Arts Chiyoda

私的には「手の届くアートフェア」という位置づけのイベント。毎年楽しみにしている。

今年の新人で最も面白かったのがMEMで見た林ナツミ。以前から彼女のブログは見ていて、作品の面白さもあるが、ほぼ毎日浮遊ポートレートを撮っているという根性に感心していた。とうとうアーティストデビューということで素直に応援したい。

ギャラリストによると、林は海外での評価が早かったとのこと。実際、会場ではフランス人グループに何度も林ナツミはどこだ、と聞かれた。彼女がこれだけ撮っていれいれば、いつかは東京のどこかで目撃しそうだ。

hpgrp Galleryでは所沢ビエンナーレ松の湯で見た窪田美樹があった。手法は同じく、くしゃくしゃにした紙による造形なのだが、今回の作品のモチーフは刺青ということ。刺青をしている人の写真を撮らせてもらって、その写真プリントを素材に等身大の人物オブジェと作っている。ブキミだが惹かれる。

川久保ジョイの清冽な写真を見ていて、端正でありながら永遠に通じる深みを持つ写真は日本人に特有なのかもしれないと思った。川内倫子、野口里佳など世界に通用するセンスがある写真家が若手から出ているのを感じる。

ULTRA004@スパイラルガーデン

ULTRA004@スパイラルガーデン

若手ギャラリストによるアートフェア。ギャラリーではなくギャラリストが前面に出るところが新しい。10月末の3日間をオクトーバーサイド、11月初めの3日間をノヴェンバーサイドと呼ぶ展示入れ替え制だったので2回に分けて訪問。

オクトーバーの方で気になったのがStanding Pine Cubeの西田菜々子。室内なのに山があったり鹿がいたりの風景をざっくりとしたマチエールで描いている。それから和田画廊の太田拓美。山奥の電波望遠鏡や野原の風力発電機の写真。柴田敏雄も畠山直哉もそうだが、自然と工業と人間というテーマが芸術写真の分野としてしっかりと根づいたことを感じた。

SNOW Contemporaryにあった山川冬樹の放射線測定器とエレキ・ギターによるインスタレーションはかっこよかった。キッチュな造形だがテーマはハード。測定器の対象はサンプルの放射性物質とのことだが、本来は山川が教えている大学の土を使ったらしい。

ノヴェンバーではギャラリー椿の坂口トモユキが衝撃的だった。ごく普通の住宅街にある普通の住宅を撮った写真なのだが、生まれて初めて見たような景色だった。人間とは違う映像認識機能を持ち、全く違う文化を持った知的生物が、夜の東京に来て住宅街を見ているような映像。どんな撮影方法なのか分からないが、かなりポストプロセスがないとこうならないのではないか。これからも注目したい。

他には渋家(シブハウス)というシェアハウスがここに同居しているアーティストの作品を展示していた。引越し記念のヌード群像写真もいい感じだったし、絵画作品も美大とかギャラリーの影響からふっきれた爽快感があった。シブハウスの創始者としばらく話をしたが気持ちのいい若者だった。

展示会場について。よくあるアートフェアでは展示はブース形式。しかし、ULTRAはウォール形式であるため、立ち止まってじっくり見ることがしにくい。放射状のウォールもどんな動線で見ればいいのか分からない。青山でやらずに少々足の便が悪くてもいいから広々とした所でやればいいのに。

ヨコハマトリエンナーレ2011(BankART Studio NYK会場)

ヨコハマトリエンナーレ2011(BankART Studio NYK会場)

BankART会場の目玉はアピチャッポン・ウィーラセタクンの一連のビデオ作品とクリスチャン・マークレーの「The Clock」だろう。

ウィーラセタクンは2階に大きなスペースを取って3つの部屋で7本の作品を上映していた。ビデオ作品なのですべて見るのに時間がかかる。私は各階とこの部屋を行き来しながら、ほぼ半日をここで過ごした。

タイの田舎で若者が無為に過ごす様子、ある事件の記憶についてのモノローグ、ミリタリーごっこをする青年たちなど、いずれの映像も脈絡が無いのだが、繰り返される映像を見ているとゆったりとした時間の流れが心地よくなってくる。

やることがないのに時間だけが限りなくあった子供の頃の夏休みのことを思い出した。これがアジア時間なのだろうか。それが自分の中にもしっかりとあることを認識した。

クリスチャン・マークレーの作品は2009年のヨコハマ国際映像祭でも見た。この作品「四重奏(ヴィデオ・カルテット)」は古今東西の映画の音楽のシーンを編集した見事な映像作品だった。

今回のヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞受賞の作品「The Clock」も誰もが楽しめる作品。監視ボランティアでこの作品の前に立ったのだが、来場者が入ったきりなかなか出てこない。普通の映像作品なら終了と同時にゾロゾロと出てくるものなのに。

どのシーンから見始めても惹きこまれて、いつ切り上げたらいいのか分からないのだろう。それだけ惑溺感がある映像の洪水だった。

夕刻からの方が面白そうなシーンがありそうだし、深夜とか夜明けの頃も気になる。一度は24時間上映してほしいものだ。

ところで、組織委員会の関係者によると、横浜美術館には空調などの管理された空間でしか展示できない古典作品などを展示し、BankART会場にはそれ以外の作品を展示したとのこと。

確かにBankART会場1階のデワール&ジッケルの粘土のカバやイエッペ・ハインの霧の作品のある部屋はかなりの高湿度だった。ここで監視ボラをやったのは酷暑の時期だったので体力の消耗が激しかった。

また、ヘンリック・ホーカンソンの「倒れた森」は虫がいてもおかしくないくらいの立派な森だし、塩のランプのあるシガリット・ランダウの部屋は逆に極低湿度だったので監視に立っていると喉が痛くなった。

昨年の新潟市美術館でのカビや害虫問題が記憶に新しいので、そうした振り分けも仕方ないかなと思うが、現代アートの国際展でそれでいいのだろうかと疑問もわく。

むしろ美術館なのにこんなことを、とかオルタナティブスペースでこんなにオーソドックスな、のような驚きが欲しかった。例えば横浜美術館に入ってすぐの中央ホール、イン・ジウジェン作品のある場所にあの「倒れた森」があったらどうだろうかと空想してみる。天井の高さも十分だし採光もいい。

以前の投稿に書いたが今回のBankArt会場はすっかり閉ざされてしまって、運河沿いという絶好のロケーションが台無しになっている。外階段を出入り口に使うなどの光を取り入れる発想はなかったのだろうか。2008では奥の非常階段まで使って順路としていたのに。

横トリ2008のことだが、3階の中西夏之の部屋で監視ボラをしている時、窓の日差しが時間帯によっては作品に直接当たってしまって、慌てて運営ディレクターに申し入れたことがあった。しかし、作家の返事は「構わない」。

後日、作家本人と話す機会があり尋ねたところ、「作品をお嫁に出すつもり(記憶が定かでないがそんな意味だった)」でこの場所にしたとのことだった。作品を保護するどころか、場所によってどう変わっていくのかが楽しみという発想に年季の入った前衛魂を感じた。

ヨコハマトリエンナーレ2011(横浜美術館会場)

ヨコハマトリエンナーレ2011(横浜美術館会場)

横トリ2011の参加作家数は合計79名。2001の109名、2005の86名からは減少だが、2008が65名だから微増というところか。しかし、満足度やイベントとしての展開からするとかなりのダウンという印象。

横浜美術館会場では多くの作品がホワイトキューブに行儀よく収まってしまったが、田中功起が美術館の備品をかき集めて配置した「美術館はいっぺんに使われる」で愉快に秩序を破壊してくれた。雑多な什器に挟まれたソファでビデオを見るのが妙に居心地よい。

この会場で最も満足度の高いのが、黒いY字路の油絵で埋め尽くされた横尾忠則の部屋。圧倒された。左の路も暗い、右の路も暗い、かといってあなたはここに立ち止まっているのですか、と現代の日本社会に生きる私たちに問いを突きつけているようだった。

今回の横トリでは横浜美術館収蔵の作品をところどころに散りばめているが、その中では工藤哲巳の1974年の作品が昏い輝きを放っていた。しかし、展示場所が寒々とした廊下じみた場所だったのが残念。荒木経惟の部屋を収蔵作品で埋めるのなら工藤の作品をもっといい場所に置けばいいのにと思った。

ミルチャ・カントルのビデオ「幸せを追い求めて」は人生が徒労であることを軽やかに笑い飛ばしてくれている。女神たちが人間の営みや文化の蓄積を次々と掃き消しているようだ。

杉本博司の部屋は空間構築によるストーリーテリングが満喫できる。小さなスペースなのに空間としての完成度が高い。キャプションを読みながら楽しむものなので空いてる時間帯に行くのが良いと思う。

この作品に限らず今回の会場はキャプションが充実している。むしろ饒舌すぎるくらい。2008ではキャプションにタイトルさえもなかったが。

ところで、国際展とは現代という時代の反映でなければならないと思う。そして国際展のテーマはディレクターがこの世界をどう見ているかというマニュフェストでもあると思う。2008の「タイム・クレヴァス」は現代の国際展における時間の裂け目に注目するべきだという意味だった(「ゲームの規則」から)。

今年の「OUR MAGIC HOUR」は魔法の時間に注目しましょうという意味だと思うが、現代という時代に魔法の時間を追求するべき時と解釈することに私は違和感がある。湯本豪一のお化け映画ポスターにスペースを割くのなら現代という時代に正面から向き合った作品が欲しかった。

2008ではBankART会場に数点のR-15作品があった。当時それは賛否両論あったが、現代のアートシーンを反映させるためには必要なことだったと思う。

来場したすべてのお客さんが満足して帰るような展示会がいい展示会なのか。むしろ納得いかなかったり、腹をたてて帰るようなお客さんが数パーセントいるくらいの方が忘れられない展示会になるのではないか。どこにもエッジのない今回の展示会場を見てそう思った。

ヨコハマトリエンナーレ2011

ヨコハマトリエンナーレ2011(横浜美術館)

プレオープンと初日にボランティアやって、それからほぼ毎週のように横浜通い。
何よりも好きなアートイベントなもので、何も考えずにボラ参加していましたが、なんかモヤモヤする。そろそろそのモヤモヤを解いてみよう。

組織委員会の人や総合ディレクターの話を聞くと、とにかく「実施できてよかった」とのこと。

仕分けによる国際交流基金の撤退や震災による資材の高騰などがあり、これほどの逆境の中で実施された横トリは初めてなのではないか。磯崎新がぶん投げた2005より過酷かもしれない。

それは分かるのだけど、サポーターとしてはこの三年に一度のアートのお祭り。可能な限り多くを期待してしまうのは仕方のないこと。なので、いきおい過去の横トリと比較してしまう。

ヨコハマトリエンナーレ2011には海がない

今回の横トリが過去展と違って致命的にがっかりなのは、とても情緒的だが「海がないこと」だ。

横トリにはいつでも海があった。2001ではインターコンチネンタルホテルのバッタが海空を凝視していたし、2005では山下埠頭へのアプローチでダニエル・ビュランの旗がはためいていた。2008では赤レンガ倉庫でも新港ピアでも海風がビュービュー吹いていた。今年は横浜美術館からもBankARTからも海が遠い。

運河沿いのBankARTだけど今年はちらっと見える景色が海を余計に遠く感じさせる。

2008ではここから定期ボートも出ていた。その時の入口は2階で外階段を登って行くと観覧車や赤レンガ倉庫が見えて爽快だった。あと、3階の中西夏之の部屋の小窓から見える景色はちょっとしたプレゼントのようだった。
どうして今年のBankARTはあんなに閉めきってしまったのだろう。

私は横浜市民ではないが、「横浜」で現代アートの国際展をやることに興味を抱き、やがてそれがわが街の誇りのように感じ始めたものだった。それがミナト横浜の現代アート展が普通のアートイベントになってしまったことに私の周囲の横浜市民にもがっかり感が漂っている。

まちなかへの展開はどこへ行ってしまった?

そうした情緒からの視点はさておき、横トリの基本理念から考えるとどうだろうか。

横浜市創造都市事業部(当時)の担当が言うところの横浜トリエンナーレの特徴は、「まちなかへの展開」と「市民協働」である。

もう一つの大きな特色は、まちなかへの展開です。創造都市・横浜は、文化・芸術の力で、歴史的建築物などを活用するまちづくりを進めてきました。トリエンナーレの期間中は、横浜に集まるアーティストの協力を得て、まち中が様々なアートやプログラムで彩られることになります。「横浜トリエンナーレ組織委員会会長 横浜市長 林文子(ヨコハマトリエンナーレ2011 公式ウェブサイトより)」

2001のバッタは言うに及ばず、2005のヴィラ會芳亭、2008の大巻伸嗣や田中泯のような日常空間を異空間に変える作品が今回は見られない。

これはあいちトリエンナーレだが、池田亮司によるspectra [nagoya]はアートファンのみならず、すべて名古屋市民に忘れられない異界の塔を建造した。横トリ2008の大巻伸嗣のシャボン玉は市内各地で通りすがりの一般市民に歓声を上げさせた。

2008で三渓園会場が実現したのは水沢総合ディレクターの強い意向だった。長閑な日本庭園で普通の観光客と現代アートファンが入り交じる様子を見るのは楽しいボランティアだった。

特に中谷芙二子の霧の彫刻は、三渓園に写真を撮りに来た高齢の写真マニアたちを夢中にさせていた。また、古民家の和室で前置きなしに展開されるティノ・セーガルのキスではお客さばきに手を焼いたようだった。

今年の作品ではウーゴ・ロンディノーネの像群は外に向かって開かれてるように感じられるが、美術館の前に設置しても街中への展開にはならない。あれが三渓園にあったらと妄想してみる。

また、もうひとつの特徴である「市民協働」では大幅に後退した。しかし、今日これについて触れるのはやめておく。

パフォーマンスがなくてお祭りらしくない

2008と比べて特に大きく違っているのは、2011の横トリは普通の展覧会になったということだ。

評価は分かれるが横トリ2008では水沢総合ディレクターの下、内外の5人のキュレーター陣が「ゲームの規則」というペーパーをまとめた。その要旨は今日における国際展はオープンした時にはすべては終わっているという認識だ。端的に言うと、だからこそひたすらパフォーマンスをするべき、ということだった。

おかげで横トリ2008では驚異的にパフォーマンスやライブ、シンポジウムが多かった。赤レンガ倉庫の3階シアター、運河パークのリングドーム、三渓園のティノ・セーガル。平日でもほぼ毎日どこかで何かやっていた(田中泯の場踊り、そしてあの痛そうな勅使川原三郎)。そのため組織委員会ではこれらをさばくためにオープン後に何人か採用したと聞いた。

現代アートの展示会というのはこんなにパフォーマンスをやるのかと驚愕したものだった。しかし、それが横浜市全体を巻き込んだ現代アートの祝祭気分を巻き起こしていたことは確かだった。その記憶があるもので今年の横トリは、美術館と関連施設に引きこもった印象がさらに強い。

横浜とハノイのボランティアがそれぞれの街を走り、そのGPSログによってサクラを咲かせたジャン・グエン・ハツシバの作品はアウトプットとしては美しいが、それは既に完了しているイベントの記録だ。
例えば、これが毎週、横浜とハノイで同時に行われ、その結果が刻々とGoogleMapに表示され…、のようだったら現在進行形になったのだが。

ジェイムズ・リー・バイヤーズの作品と連動したパフォーマンスは、土地に祈りと存在を残す意思を思わせて素晴らしい。ミルチャ・カントルの徒労の歩みと連動して鑑賞するとさらに深みを増す。私はこうした作品が美術館に収まってしまうことが残念だと思う。これから数回でもいいから三渓園でやってくれないだろうか。

国内も海外もスタープレーヤーが少ない

さて、トリエンナーレ、ビエンナーレというのは、そもそも世界の現代アートの状況を概観するためものでもある。そうしたトリエンナーレのひとつとしての横トリ2011はどうだろうか。

これまでの横トリでは国際交流基金がキープレーヤーであり、総予算8億円のうち4億円ほどの予算を毎回提供していた。国際交流基金は外務省の外郭団体であることもあり、海外のアーティストを国内に招聘することに注力しているようだった。

しかし、業務仕分けの影響でこれが後退(すっかり消えたわけではないが)。代わって文化庁からその分の予算が捻出されることになった。それに伴い国内アーティストの比率が高まることになったと聞く。

私は今回のラインアップを見て海外のスタープレーヤーが手厚くない印象を受けた。
映像系でこそカンヌ・パルムドールのアピチャッポン・ウィーセラタクンとヴェネチア・金獅子賞受賞のクリスチャン・マークレーと充実しているが、それ以外のビッグネームではオノ・ヨーコ、マイク・ケリー、ダミアン・ハーストくらい。

一方、国内作家では、見るに値するのは横尾忠則と杉本博司の超ベテランくらいだった。名和、小谷、曽根、ホンマなど昨年から今年にかけて大規模な個展を行った若手作家は姿が見えない。世界に対して日本の現代アートの今日を伝えるのに田中功起や冨井大裕、岩崎貴宏だけでいいのかと思う。

以前の横トリでは、世界に触れた興奮と、消化しきれないものをたくさん詰め込んだモヤモヤで満たされて、もう一回、もう一回と会場に足を運んだものだった。

今回展の横浜美術館とBankARTをひと通り見ての満足度は、都現美の企画展と常設展を見て、それから清澄白河のギャラリーめぐりをしたくらいに過ぎない。私には横トリの満足度はこんなものではなかった感がある。

311の影がなさすぎて居心地悪い

横トリ2011のテーマは「OUR MAGIC HOUR 世界をどこまで知ることができるか?」である。

科学や理性では解き明かせない領域に改めて眼を向けることで、これまで周辺と捉えられていた、あるいは忘れ去られていた価値観や、人と自然の関係について考えるとともに、より柔軟で開かれた世界との関わり方や、物事・歴史の異なる見方を示唆しようとするものです。「コンセプトについて アーティスティック・ディレクター 三木あき子(ヨコハマトリエンナーレ2011 公式ウェブサイトより)」

このテーマ自体を否定するものではないが、「現代」アートの国際展である横トリは、311という事象をどのように捉えるのかというメッセージがあるべきではないのか。

震災以来、多くの日本人作家、特に若い作家たちが自分の活動がこの事象にどんな意味があるのかと惑う姿を多く見てきた。今日の社会状況に現代のアートはどんな解釈をするのか、あるいはどのような方向性を示せるのか、国内最大級の国際展である横トリがせめて取り組む姿勢を見せて欲しいと思うのは期待しすぎだろうか。

しかし、ウェブサイトにも組織委員会スタッフの発言にも311の影が見当たらない。それを反映して会場にもその影がない。見事に普通の展示会であり、私にはそれがかえって居心地悪い。

311に関わりのある作品について言うと、ハツシバやスーザン・ノリーなど一部の作家が触れている。

しかし、何よりも横尾忠則の部屋が素晴らしい。暗いY字路の絵画で埋め尽くしたこの部屋にいると、とても心が落ち着く。左に行っても暗闇、右に行っても暗闇、どちらに行っても不安な先行きだけど、だからってここに留まっている?と問いかけられているようだ。

先行きの見えない不安な世の中だからこそ、こうした不安な映像が人の心を鎮静化させるのかもしれない。

というように、ごく一部の作家は明示的にか非明示的にか311を意識している。であれば、キュレーションとして急遽何らかの動きがあってもよかったのではないか。例えば311以降の世界に惑う姿をあからさまにすることを厭わない下道基行を急遽、起用したらどうだったろうかと空想してみる。

他にも新報ピアや黄金町の関連プログラムががっかりだったことや、2008では好評だったアメリア・アレナス的対話型ガイドがなくなったことなど、他もに言いたいことはたくさんあるが、とりあえず大きな点だけを吐き出しておく。ちょっと気が晴れた。

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